山岡鐵舟
鉄舟居士自叙伝
山岡鉄太郎、姓は藤原、名は高歩、字は曠野、鉄舟と号す。父は旧幕府飛弾郡代小野朝右衛門、母は常陸国鹿島神宮社人塚原石見二女磯、天保七年六月十日江戸に生れ、山岡家を継ぐ、旧幕府大監察を勤め、朝廷に徴されて侍従に任じ累遷して宮内少輔と為る。
九歳にして撃剣の道に志し、久須美閑適斎に真影流を学び、後井上清虎の門に入り、北辰一刀流を学ぶ。猶一刀流正伝を極めんと欲し、浅利義明に随学数十年、明治十三年三月三十日、元祖一刀斎の所謂無想剣の極 處を得たり、自是無刀の一流を開く。幼年書を飛弾国高山人岩佐一亭に従学し、弘法大師入木道五十三世の伝統を続きたり。
十三歳の頃より禅学を好みたり、此志を起す所以は、武家に生れ、非常の時敵に向ひ、死を視る帰するが如きの不動心たらんには、丹を練るに在り、丹を練るは何を以て最第一とするかと、父高福君に問ふ。父君曰祖先高寛君は、伊藤一刀斎直弟小野次野右衛門並に小太刀半七と云へる両士の門に入り、剣法に達せられ、又禅道の蘊奥を極められたる人なり、東照公に仕へ数度の戦功あり、是則ち不動心の做す所なり、常に戦場に赴くに、吹毛曽不動と云ふことを記したる背旗を帯して働かれたり、此吹毛曽不動と云へることは禅語なり、我も此句を深く信じ、禅道を心掛けたりと語られたり、爾来丹を練るは斯道に如かじと思ひ、武州柴村長徳寺願翁、豆州沢地村龍沢寺星定、京都相国寺獨園、同嵯峨天龍寺滴水、相州鎌倉円覚寺洪川の五和尚に参じ、終に天龍寺滴水和尚の印可を得たり。
山岡鉄舟年譜
天保七年(一八三六) 一歳
六月十日、御蔵奉行小野朝右衛門高福の五男として生まる。
弘化元年(一八四四) 九歳
久須美閑適斉について真影流を学ぶ。
弘化二年(一八四五) 十歳
七月一日、父高福、飛騨高山郡代に転任、鉄舟父母に同行す。
嘉永三年(一八五〇) 十五歳
書道の師、岩佐一亭より入来道五十二世を譲られ、一楽斉と号す。
嘉永四年(一八五一) 十六歳
九月二十五日、母磯女、高山陣屋で病没す、十二月父の招請により、北辰一刀流井上清虎、高山に到着。
嘉永五年(一八五二) 十七歳
二月二十七日、父高福、高山陣屋で病没す、七月二十九日、五人の弟を連れて、江戸に帰着す。
安政二年(一八五五) 二十歳
山岡静山に鑓術を学ぶ、静山急死のあと、山岡家の養子となり、静山の妹英子と結婚す。
安政六年(一八五九) 二十四歳
天下の大勢を観望し、尊皇攘夷党を起し、清川八郎と結ぶ。
文久三年(一八六三) 二十八歳
浪士取締役となり、将軍家茂の先供として上洛、間もなく江戸に帰る。浅利又七郎に剣を学ぶ。
明治元年(一八六八) 三十三歳
三月、慶喜の命を受け、東征大参謀西郷隆盛と静岡で会見、徳川家の安泰を約す。
明治二年(一八六九) 三十四歳
静岡藩権大参事に任ぜられる。
明治四年(一八七一) 三十六歳
十一月、茨城県参事に、十二月、伊万里県権令となる。
明治五年(一八七二) 三十七歳
六月、明治天皇侍従となる、三島龍沢寺の星定和尚について参禅す。
明治六年(一八七三) 三十八歳
五月、皇居炎上、淀橋の邸より馳けつける。宮内小亟に任ぜられる。
明治七年(一八七四) 三十九歳
三月、西郷説得のため、内勅を奉じ九州に差遣。
明治八年(一八七五) 四十歳
四月、宮内大亟となる。
明治十一年(一八七八) 四十三歳
八月、竹橋騒動に御座所を守護す、明治天皇、北陸、東海地方ご巡幸に供奉す。越中、国泰寺越叟和尚と相識る。
明治十三年(一八八〇) 四十五歳
三月三十日、払暁大悟徹底、滴水和尚の印可を受く、剣の道も無敵の極処に達し、無刀流を開く。
明治十五年(一八八二) 四十七歳
三月、戌辰の際「西郷との應接の記」を書く、六月、宮内省を辞任す、されど恩命により、宮内省御用掛となる。
明治十六年(一八八三) 四十八歳
普門山全生庵を谷中に建立す
清水に久能寺(鉄舟寺)の建立を発願す。
明治一七年(一八八四) 四十九歳
五月、白陰禅師の国師号宣下に尽力す。
明治二十年(一八八七) 五十二歳
五月、華族に列せられ、子爵を授けられる。
明治二十一年(一八八八) 五十三歳
七月十九日、午前九時十五分、座禅のまま大往生を遂ぐ。
七月二十二日、谷中全生庵に埋葬さる。